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(映画)セッション@伏見ミリオン座

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★★★★☆

先日観た『バードマン』に続き、音楽映画が続きます。くしくも同じようにドラムものです。
映画公開前から、菊池成孔町山智浩の批評合戦で盛り上がった映画です。
名門音楽学校へと入学し、世界に通用するジャズドラマーになろうと決意するニーマン(マイルズ・テラー)。そんな彼を待ち受けていたのは、鬼教師として名をはせるフレッチャー(J・K・シモンズ)だった。ひたすら罵声を浴びせ、完璧な演奏を引き出すためには暴力をも辞さない彼におののきながらも、その指導に必死に食らい付いていくニーマン。だが、フレッチャーのレッスンは次第に狂気じみたものへと変化していく。(シネマトゥデイ
映画全編に漂う緊張感。バードマンもそうですが、ずっとドラムの音が引かれているとこうした緊張が漂いますよね。
ただ、個人的にはバードマンよりセッションの方が、素晴らしかったと思います。
 
(以下、一部ネタバレが含みます
 
本作は、まるで音楽というものを題材にしたスポ根ものの映画。鬼コーチと食らいつく生徒という設定は昔からあります。例えば「ロッキー」とか。
ただ今までの鬼コーチと違うのは、鬼コーチが絶対正しいということではないということ。それはラストにかけて徐々にわかってきます。
 
ラストの演奏シーンまで、二転三転する物語。鬼コーチと生徒、どちらも格闘技さながらのなりふり構わずの殴り合いです。そしてその先の和解。
最高のラストとなっています。

人間の認証欲求から考える「セッション」

このなりふり構わず殴りあう衝動はなんなのでしょうか。映画前半の練習中では「悔しさ」という言葉で表現されています。しかし映画を観終わった時に思ったのは、「悔しさ」の先には「認められる」ということがあったのではということです。
 
主人公ニーマンは、音楽以外の部分でいくつかのコミュニティーに属しています。まずは家庭。象徴的に出てくるのは父親です。物書きもするが高校教師が本職。度々、打ちひしがれたニーマンに対して「別の生き方もある」ということも諭してきます。
もう一つが、恋人ニコルとの関係。映画館で声をかけて恋人の関係まで発展するが、音楽を選び破局。一度、後ろ髪を引かれて連絡をします。
ともに打ちひしがれた時の誘惑として存在しています。しかし恋人は戻ってこず、父親的コミュニティーはやはり相容れない。それがラストに繋がっていきます。
 
ニーマンにとって、父親や恋人といったところへ逃げるという選択肢はありました。それはニーマンを認めれてくれる存在です。
しかしニーマンは、鬼教師フレッチャーに認められること(認めさせるを選びます。
 
ここで「認められる」と「認めあう」ということの違いについて考えてみます。
先の話でいくと、父親に「認められる」ということは成立しても、「認めあう」ことはできなかったのではないでしょうか。
父親的コミュニティーにはやはり相容れないニーマン。これでは一方的な関係になります。
 
鬼教師フレッチャーと「認めあう」ことで初めて成立する関係、それが映像で描かれたのがラストです。
 
ラストシーンでは、スポットライトは二人にのみあたります。二人だけの世界です。認めあうことが成立した証としての演出のように見えます。
 
セッションとはひとりではできない。相手があって、相手を認めあって初めて成立するのがセッション。
 
そんなことを考える映画でした。