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(読書)ローマ人の物語 迷走する帝国/塩野七生

ローマ人シリーズです。前巻の『終わりの始まり』に続き、ローマ帝国の衰退期の話です。今回は3世紀のお話し。皇帝でいうとカラカラ帝からカリヌス帝までになります。73年間に22人の皇帝が登場する混乱期です。

これまでの危機は外部的要因によるものでしたが、この3世紀の危機は内部的な要素も多分に含んでいました。

克服することができた危機と対応に追われただけの危機のちがい。

目の前の危機を克服するために、自分たちの本質までを変えた結果、さらに危機が深刻化していくというのが3世紀の危機の特徴でした。

ローマ人の本質を変えるということ

大前提としてローマは、多民族多文化多宗教の上に成り立っていました。これらについて寛容であることがローマがローマたらしたといっても過言ではありません。

 

著者がまず指摘したのは、カラカラ帝による「アントニウス勅令」について。すべての属州民にローマ市民権をあたえるというこの号令によってさまざまな弊害(兵役につくことによるメリットがなくなり、属州税の廃止による財政圧迫など)を生みます。

「アントニウス勅令」は、現代ならば人道的に素晴らしいといわれるかもしれません。しかしこの勅令によってローマ市民権の持つ魅力とそれに付随する責務が崩れ去りました。誰もが持っているということは、誰も持っていないと同義であることを示しています。

 

もうひとつ法律でローマの根幹を揺るがすものが、皇帝ガイエヌスが作った「元老院」と「軍隊」の完全分離を定めた法でした。元老院議員らは、自分たちを軍務からしめ出す法に、賛成をし成立させてしまいます。

これ以降、軍人皇帝が多数出てきたのもこの時代の特徴ですが、その軍人皇帝を作ったのは、非軍人によるという皮肉

ただ、戦後日本教育でのイメージとは違い、必ずしもミリタリーがだめでシビリアンが正しいということは成り立たないのが歴史を見ていてわかります。

超一流のミリタリーであり超一流のシビリアンであったのはカエサルですが、そこまでいかなくてもミリタリーでシビリアンでもあったリーダーの登場がなかったのが、衰退の原因だったようです。

元老院はこのミリタリーでシビリアンでもあった人材の供給場所だったのにものかかわらずその道を断つ法律がこの法律でした。

 

皇帝が次々かわることによって、政略の継続牲がなくなったのも三世紀ローマの特徴です。以前は悪帝でも良い政策は継続され、発展させてきたのがローマでした。しかしこのころになると継続されなくなり、場当たり的な対応が続きます。特に外交面ではこの弊害は大きいでしょう。政略がコロコロかわると国内が荒れているのがわかりますから。これは現代社会でも同じでしょうね。

 

塩野七生の名言

恒例の著者の名言を集めてみました。

人間は所詮、全員平等でいることには耐えられず、何かで差別しなければ生きていけないのかもしれない。

アントニウス勅令によって一見、平等にみえる社会になったことについて。実はこれは世代間格差の固定にもつながる皮肉を引き起こします。

 

外交とは、可能なかぎり少ない「ギブ」で可能なかぎり多くの「テイク」する技能

皇帝マクリヌスがパルティアとの講和するにあたっての行為について。結果、マクリヌスは講和条件を丸のみする。

 

権力者は、たとえ憎まれようとも軽蔑されることだけは絶対にさけなければならない

その丸のみの講和によって、兵士たちは皇帝を軽蔑の目でみるようになり失脚する。

 

現実主義者が誤りを犯すのは、相手も現実を直視すれば自分たちと同じように考えるだろうから、それゆえに愚かな行為には出ないにちがいない、と思い込んだときなのである。

ペルシア朝の勢力拡大について。パルティアと違って落としどころを探れないペルシア。特にナショナリズムに走るとこの傾向が強くなると思われます。

 

人間は、自分のやり方で終始できたとき、もてる力をより効果的に発揮できるのである

皇帝アレクサンデルがペルシアを撃退したときについて。ペルシアの主力部隊である騎兵は歩兵で囲い込んで、友軍から孤立させ、動きを封じ討ち取るやり方ができた。

 

継続することがエネルギーの浪費を防ぐ方法の一つである

三世紀ローマの政策が継続されないことについての嘆き。継続は力なり。これの真理はエネルギーの有効活用なのかもしれません。

 

女とは権力を手中にするやいなや、越えてはならない一線を越えてしまうのである。しかもそれを、相手の苦境につけこむやり方で。

パルミラ王国の影の支配人、ゼノビアについて。ローマ皇帝ガリエヌスと良好な関係を持っていた夫オデナトゥスが殺害されるや、自分の息子を王にすえる。これはガリエヌスが西方で手一杯だったところを狙っての実行。さらには皇帝領だったエジプトまでも支配に収める。

 

 反旗をひるがえすのだから、相応な決意で臨まなければ成功はおぼつかないはずだ。それなのに、自分の意志ではなく、なんとなくという感じで大事に手を染めてしまうのも、国の衰退期の特徴の一つである。そして、このようなつまらないことに時間と労力を空費してしまうことが重なるのも、衰退の証しの一つであるのだった。

皇帝プロブス時代に反乱を起こした将軍たちについて。2年間で5件の小さな反乱がおこった。

 

実力主義とは、昨日まで自分と同格であった者が、今日からは自分に命令する立場に立つ、ということでもある。この現実を直視し納得して受け入れるには相当な思慮が求められるが、そのような合理的精神をもち合わせtている人は常に少ない。いわゆる「貴種」、生まれや育ちが自分とはかけ離れている人に対して、下層の人々が説明のしようのない敬意を感ずるのは、それが非合理だからである。

ちょっとはまともな皇帝だったアウレリアヌス、プロブスの暗殺ともいえない、あっけない死に方について。実力で地位を得た人間にも、一般大衆から敬意をささげられる唯一の方法は、良い意味で距離を置くということ。それには時間が不可欠な要素だったが、彼らの治世はあまりに短すぎた…。

 

あらゆる主義や運動によく見られる展開なのだが、純粋にモットーをかかげるのがつづくと、この辺りで良しとする穏健派と、いやもっとと主張する急進派に分裂するものである。

紀元一世紀、ユダヤ教から距離を置き始めたキリスト教についてのべたもの。 

 

不幸や逆境に苦しんでいる人々にとって、最後の救いになり慰めになるのは希望である

キリスト教の勝利の要因は、ローマ側の弱体化と疲弊化によって、人々が宗教に走っただけであるということ。

 

キリスト教の神は人間に、生きる道を指し示す神である。一方、ローマの神々は、生きる道を自分で見つける人間を、かたわらにあって助ける神々である。絶対神と守護神のちがいとしてもよい。しかしこのちがいが、自分の生き方への確たる自信を失いつつある時代に生まれてしまった人々にとっては、大きな意味をもってくることになったのだった。

目から鱗。守護神と絶対神。主体は神なのか人なのかという視点で宗教をとらえるという考え方は覚えておいてもよいと思う。

 

 いよいよキリスト教の時代がやってきます。

 

ローマ人の物語〈32〉迷走する帝国〈上〉 (新潮文庫 し 12-82)

ローマ人の物語〈32〉迷走する帝国〈上〉 (新潮文庫 し 12-82)

 

 

ローマ人の物語〈33〉迷走する帝国〈中〉 (新潮文庫 (し-12-83))

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ローマ人の物語〈34〉迷走する帝国〈下〉 (新潮文庫 し 12-84)

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