村上春樹の新刊がでるというニュースが流れています。そんな著者自身が”小説を書くということ”自体をテーマにしたエッセイ集です。
読んでいてわかるのが、著者が「いかにもな」小説家らしい雰囲気ではないということ。
毎日、規則正しい生活をし、数時間机に向かうこと。そして1時間のジョギングをすること。
きっちりと丁寧に仕事をしているともいえます。
具体的な書き方についても、何度も書き直しや推敲をするスタイルをとっていることが書かれています。他の作家はどうかわかりませんが、村上作品が芸術品というよりも工芸品のように一定にクオリティを維持するのは、こうした作業があったからなのだと思います。
本文によると
小説を書くというのは(自分の)闇にもぐって小説の養分をとって帰ってくる必要がある。
と書かれています。そのためには健全な体がいると。
健全な精神は、健全な肉体に宿る
そんな言葉を思い出させてくれます。まるで職人のようです。
もう一つ彼のデビュー作『風の歌を聴け』のエピソードがなんとも小説的でした。小説を書こうと思ったのが、神宮球場の開幕戦を観ているときに先頭打者が2塁打を打ち、その時に、天からひらひらと落ちてきたのだと。
また群像新人賞をとることも、千駄ヶ谷を散歩していた時に鳩を助けその帰りにひかり輝くショーウィンドーをみて悟っただとか。
それは、
自分は何かしらの特別な力によって小説を書くチャンスを与えられた。
と記されています。まるで小説的な話ですが、この「チャンスを与えられた」という部分がなんとも彼らしいです。
この本の中で、小説というものはリングに上がるのは簡単でもとどまり続けるのは難しいと書かれています。
彼はまるで職人のようなスタイルでそのチャンスを生かし、とどまり続けているということなのでしょう。
僕が村上春樹作品を最初に読んだのは中学1年生でした。中学受験の時に塾の予備校の先生が、彼の作品がベストセラーになっていることを雑談で喋っていたのを覚えていたからです。というわけで最初に読んだ作品は『ノルウェイの森』でした。それは思春期の僕には(いろんな意味で)衝撃的過ぎました。これを小学生に紹介する塾の先生もどうかと思いますが…。
いづれにせよこの『ノルウェイの森』からはじまり、彼の作品を読み漁るようになります。そして、初期の村上作品に共通する、主人公の第三者的視線と喪失感が僕の人格形成に多少なりとも影響をあたえています。そして長らく『ノルウェイの森』の直子こそが理想の恋人像でもありました。しかし中高生当時にそんな人なんているわけもなく、悶々とした学生生活を送ることになりました…。
最近の小説は読んでいませんが、『海辺のカフカ』ぐらいまでは一通りよんでいました。著者の生き様も好きで、エッセイはパラパラとよんでいました。特に『遠い太鼓 』や『走ることについて語るときに僕の語ること 』は素晴らしいエッセイだと思います。
さて、幸か不幸か村上春樹作品に影響を受けた僕ですが、彼の言葉の中で一番の言葉は、
『死は生の対極としてではなく、その一部として存在している』
という『ノルウェイの森』の冒頭に出てくる文章でした。
思春期を抜けた僕にはその意味がわかるようになり、『死』ですら受け入れて『生きていかねばならない』。それが残された人の宿命であると。
彼の本を読むとそんなことを毎回思い出します。今年は村上イヤーです。久しぶりに本棚から彼の本を読んでみようかなぁ。